黙劇「杳体なるもの」 七
<span style=";">――ああ、その通りさ。しかし、《存在》は無若しくは無限をも掌中に収める特異点を内包してゐなければ《存在》自体が成立しない。
<span style=";">――つまり、《パスカルの深淵》は外部にも内部にもあるといふことか……。《主体》にとってそれは過酷だね。
<span style=";">――何を他人事のやうに? 君も《自意識》を持つ《存在》たる《主体》ならば、この地獄の如き底無しの《深淵》は知ってゐる筈だし、現に君はその底無しの《深淵》に飛び込んでゐるじゃないか?
<span style=";">――私の場合は強ひて言へば、最早《存在》といふ《もの》が綱渡りの如くにしか《存在》出来ない《主体》において、私といふこの《主体》が、その《存在》の綱を踏み外してしまって、結果的にこの《深淵》に落っこっちまったに過ぎぬのさ。今の世、《主体》が《主体》であり続けるのはCircus(<span style=";">サーカス)<span style=";">の曲芸よりも至難の業だぜ。
<span style=";">――君はそんな《主体》の有様に疑念を抱かなかったのかい?
<span style=";">――疑念で済んでゐれば《存在》の綱を踏み外してこんな《深淵》に落っこちっこなかった筈さ。
<span style=";">――自虐、それも徹底した自虐の末路がこの《深淵》といふことかね?
<span style=";">――いいや、私の場合は唯《杳体》に魅せられて《杳体》の虜になっただけのことさ。つまり、《杳体》の面が見たかったのさ。
<span style=";">――《杳体》の面?
<span style=";">――《存在》の綱渡りをしてゐる最中に《杳体》なる《もの》の幻影を見てしまったのさ。
<span style=";">――それが《存在》の陥穽、つまり、特異点と知りながらかい?
<span style=";">――ああ、勿論だとも。端的に言へば《存在》することに魔がさしたのさ。《主体》であることが馬鹿らしくなってね。其処へ《杳体》の魔の囁きが不図聞こえてしまったのさ。
<span style=";">――どんな囁きだったんだい?
<span style=";">――「無限が待ってゐるよ」とね。さう囁かれると《主体》はどう仕様もない。一見すると有限にしか思へない《主体》は《無限》に平伏する。《無限》を前にすると最早《主体》は抗へない。つまり、《主体》内部の特異点が《無限》と呼応してしまふのさ。
<span style=";">――ふむ。ところで君は《杳体》がのっぺらぼうだとは思はなかったのかい?
<span style=";">――のっぺらぼうの筈がないじゃないか!
<span style=";">――何故さう断言出来るのかね?
<span style=";">――つまり、《主体》にすら面があるからさ。そして《他者》にも面がある。更に言へば、此の世の森羅万象全てに面がある。
<span style=";">――だから《杳体》にも面があると?
<span style=";">――一つ尋ねるが、闇に面があるかね?
<span style=";">――ふむ。闇といふ言葉が《存在》する以上、面はあるに違ひない。
<span style=";">――へっ、さうさ。その通り。だから《杳体》も《杳体》と名指した刹那に面が生じるのさ。
<span style=";">――すると、のっぺらぼうものっぺらぼうと名指した刹那にのっぺらぼうといふ面が生じるのかい?
<span style=";">――へっ、のっぺらぼうとは無限相の別称さ。
<span style=";">――無限相?
<span style=";">――無限に相貌を持つといふことは面貌の無いのっぺらぼうに等しい――。
<span style=";">――それぢゃ、無と無限がごちゃ混ぜだぜ。
<span style=";">――逆に尋ねるが、無と無限の違ひは何かね?
<span style=";">――ふっ、それは愚問だよ。
<span style=";">――さうかね? 愚問かね。それぢゃ、端的に言ふが、無と無限の違ひはその位相の違ひに過ぎない。
<span style=";">――詰まる所、それは特異点の問題か……。
<span style=";">――無と無限が此の世に《存在》するならば――この言ひ方は変だがね――特異点も必ず《存在》する。それをのっぺらぼうと名付けたところで、無から無限までの∞の相貌がのっぺらぼうの面には《存在》してしまふのさ。
(<span style=";">七 終はり)
自著「夢幻空花なる思索の螺旋階段」(文芸社刊)も宜しくお願いします。詳細は下記URLを参照ください。
http://www.bungeisha.co.jp/bookinfo/detail/978-4-286-05367-7.jsp
まだコメントはありません。最初のコメントを書いてみませんか?
コメントするには ログイン してください。