回想70年
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#31119
{e04}太平洋戦争4年目1945年6月8日日本は本土決戦の方針決定、しかし、同月23日沖縄の守備隊は米上陸軍と約3ヶ月に及ぶ激戦の末、全滅した。
{374}そのとき「昭」は帝国海軍の少年兵として奈良県天理市の海軍航空隊基地にいた。基地は連日、米空母艦載機の機銃掃射を受け駐機中の航空機は炎上、木造の兵舎は銃撃により中央部分が無くなるほどであった。しかし基地からは一機の迎撃機も飛び立つことはなかった。
{443}基地の無惨な状況を目の当たりにした「昭」はこの戦争はこの先どうなるのか上司は勿論、戦況を知らせる者もなく次第に不安を感じはじめていた。
{e04}そんなある日上司から広島・長崎に特殊爆弾(原爆)が投下されたことを告げられた。その後一週間ほどしてグラマンの襲撃が突然止んだ。また 夜の街が急に明るくなつていた、怪訝に思っていたら終戦、国破れたりであった。
{020}{020}{020}{020}{020}{020}{020}{020}{020}{020}{020}{020}{020}{020}{020}{020}{020}{020}{020}{020}{020}{020}{020}{020}{020}{020}{020}{020}
{442}1945年8月14日昭和天皇ポツダム宣言受諾の詔書を発せられた。そして同年9月2日日本政府は米戦艦ミズーリ艦上で無条件降伏文書に調印した。
明治政府以来の国是「富国強兵」は終焉し、国の経済は疲弊、衣食住に困窮していた、また70余年の歴史と精鋭を誇った帝国陸海軍は消滅した。そして国の体制は大きく変わり、まづ連合国軍最高司令部による新日本国憲法草案案が提示された。つまり日本を「民主主義」の国家にするとともに二度と戦争を起こさない国とすることを狙いとした。
当時日本の復興にはおよそ50年を要するであろうと思われていたがわずか20年後に東京オリンピックが開催され、その驚異的な発展に世界は驚いた。
{020}{020}{020}{020}{020}{020}{020}{020}{020}{020}{020}{020}{020}{020}{020}{020}{020}{020}{020}{020}{020}{020}{020}{020}{020}{020}{020}{020}
{f01}さて、明治政府発足以来太平洋戦争に至るまでの日本の動向はどのようなものであったろうか。
{037}日本は20世紀初頭から数々の戦争(紛争)を重ね軍部主導のもと資源確保のためアジア地域への覇権拡張を画策したが、英米など列強の反発により国際的に孤立化しかつ経済的制裁を受けるに至った。しかし時の政府は軍部の主戦論を抑えることができず開戦した。
{037}1894年8月、日清戦争(朝鮮支配をめぐり日本と清国との戦争) {037}1904年2月、日露戦争(朝鮮・満州支配をめぐる日本とロシアとの戦争)
{037}1910年8月、日韓併合(韓国の植民地化)
{037}1914年8月、日英同盟により第一次世界大戦参戦(ドイツに宣戦布告)
{037}1917年 シベリア出兵(日米英仏によるロシヤ革命の干渉戦)
{037}1931年9月、満州事変(中国東北部、内蒙古への侵略戦争)
{037}1932年3月、関東軍(中国東北部においた植民地常備軍)よる満州国発足
{037}1933年3月、日本、国際連盟脱退
{037}1937年7月、北京郊外の盧溝橋で日本軍と中極軍衝突。日中戦争勃発
{037}1938年3月、日本の傀儡政権・中華民国維新政府(南京)成立
{037}1939年5月、満州・モンゴル国境ノモンハンで日本軍とモンゴル軍衝突
(第一次ノモンハン事件)
{037}1939年7月、日本軍ノモンハン再攻撃、ソ連・モンゴル軍反撃 (第二次ノモンハン事件)
{037}1940年9月、日本軍、北部仏印に武力進駐開始。日独伊三国同盟調印
{037}1941年12月、日本軍、マレー半島上陸開始。ハワイ真珠湾を空襲
{020}{020}{020}{020}{020}{020}{020}{020}{020}{020}{020}{020}{020}{020}{020}{020}{020}{020}{020}{020}{020}{020}{020}{020}{020}{020}{020}{020}
{037}近代戦の勝敗は当事国の国力(経済力・工業力・資源の量等)に左右されると言われる。つまり戦争に必要な資材「武器弾薬・燃料・糧食・被服等」を継続して生産し得る国の能力により勝敗が決まるということである。
{f01}当時の米国の国力は日本を遥かに凌駕していた。このため南方諸島の資源を確保して戦争資材を生産し戦争の継続を目論んだが主要な海戦に敗れ、制空制海権を失い日本本土への資源輸送はままならず国力(戦力)は急速に低下、そして連合軍の猛攻は本土の数十カ所の都市空爆となった。当時の政府(軍部)は国力と南方資源確保による勝算はどう見積もったのだろうか。戦いのプロである軍部はどのような戦力見積もりを考えたのか。戦争への道程は未だ不可解と言われている。
{440}幾多の海戦、陸戦に敗れた際、該指揮官を更迭するこなく職を継続させなかには後日昇進した者もいた。戦闘指導者の責任が極めて曖昧であったた。
国土は荒廃し、軍人と一般市民併せて300万人余の犠牲者を出した戦争の結果責任は時の政府高官と軍部の最高指導者であろう。
{o16}戦後、連合国による戦争裁判が行われ当時の指導者が戦争犯罪者として裁かれた、しかし日本は戦争の総括つまり日本国民に対する指導者の責任については全く問われていない。司法、立法、行政のいずれの機関も未だ不問である。
戦後においても国家機関や企業における不祥事の責任が曖昧な事案が屡々見受けられるがこれは日本人の悪しき温情なのだろうか。
その昔「昭」は日本の戦況全く知ることなく国家のため海軍に志願したがすでに敗勢終盤。後年大戦の記録資料等によりその全容知るとともに軍事国策に翻弄された時代から70年余、そして悲劇の3年8ヶ月を回想した。
{374}そのとき「昭」は帝国海軍の少年兵として奈良県天理市の海軍航空隊基地にいた。基地は連日、米空母艦載機の機銃掃射を受け駐機中の航空機は炎上、木造の兵舎は銃撃により中央部分が無くなるほどであった。しかし基地からは一機の迎撃機も飛び立つことはなかった。
{443}基地の無惨な状況を目の当たりにした「昭」はこの戦争はこの先どうなるのか上司は勿論、戦況を知らせる者もなく次第に不安を感じはじめていた。
{e04}そんなある日上司から広島・長崎に特殊爆弾(原爆)が投下されたことを告げられた。その後一週間ほどしてグラマンの襲撃が突然止んだ。また 夜の街が急に明るくなつていた、怪訝に思っていたら終戦、国破れたりであった。
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明治政府以来の国是「富国強兵」は終焉し、国の経済は疲弊、衣食住に困窮していた、また70余年の歴史と精鋭を誇った帝国陸海軍は消滅した。そして国の体制は大きく変わり、まづ連合国軍最高司令部による新日本国憲法草案案が提示された。つまり日本を「民主主義」の国家にするとともに二度と戦争を起こさない国とすることを狙いとした。
当時日本の復興にはおよそ50年を要するであろうと思われていたがわずか20年後に東京オリンピックが開催され、その驚異的な発展に世界は驚いた。
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{037}日本は20世紀初頭から数々の戦争(紛争)を重ね軍部主導のもと資源確保のためアジア地域への覇権拡張を画策したが、英米など列強の反発により国際的に孤立化しかつ経済的制裁を受けるに至った。しかし時の政府は軍部の主戦論を抑えることができず開戦した。
{037}1894年8月、日清戦争(朝鮮支配をめぐり日本と清国との戦争) {037}1904年2月、日露戦争(朝鮮・満州支配をめぐる日本とロシアとの戦争)
{037}1910年8月、日韓併合(韓国の植民地化)
{037}1914年8月、日英同盟により第一次世界大戦参戦(ドイツに宣戦布告)
{037}1917年 シベリア出兵(日米英仏によるロシヤ革命の干渉戦)
{037}1931年9月、満州事変(中国東北部、内蒙古への侵略戦争)
{037}1932年3月、関東軍(中国東北部においた植民地常備軍)よる満州国発足
{037}1933年3月、日本、国際連盟脱退
{037}1937年7月、北京郊外の盧溝橋で日本軍と中極軍衝突。日中戦争勃発
{037}1938年3月、日本の傀儡政権・中華民国維新政府(南京)成立
{037}1939年5月、満州・モンゴル国境ノモンハンで日本軍とモンゴル軍衝突
(第一次ノモンハン事件)
{037}1939年7月、日本軍ノモンハン再攻撃、ソ連・モンゴル軍反撃 (第二次ノモンハン事件)
{037}1940年9月、日本軍、北部仏印に武力進駐開始。日独伊三国同盟調印
{037}1941年12月、日本軍、マレー半島上陸開始。ハワイ真珠湾を空襲
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{037}近代戦の勝敗は当事国の国力(経済力・工業力・資源の量等)に左右されると言われる。つまり戦争に必要な資材「武器弾薬・燃料・糧食・被服等」を継続して生産し得る国の能力により勝敗が決まるということである。
{f01}当時の米国の国力は日本を遥かに凌駕していた。このため南方諸島の資源を確保して戦争資材を生産し戦争の継続を目論んだが主要な海戦に敗れ、制空制海権を失い日本本土への資源輸送はままならず国力(戦力)は急速に低下、そして連合軍の猛攻は本土の数十カ所の都市空爆となった。当時の政府(軍部)は国力と南方資源確保による勝算はどう見積もったのだろうか。戦いのプロである軍部はどのような戦力見積もりを考えたのか。戦争への道程は未だ不可解と言われている。
{440}幾多の海戦、陸戦に敗れた際、該指揮官を更迭するこなく職を継続させなかには後日昇進した者もいた。戦闘指導者の責任が極めて曖昧であったた。
国土は荒廃し、軍人と一般市民併せて300万人余の犠牲者を出した戦争の結果責任は時の政府高官と軍部の最高指導者であろう。
{o16}戦後、連合国による戦争裁判が行われ当時の指導者が戦争犯罪者として裁かれた、しかし日本は戦争の総括つまり日本国民に対する指導者の責任については全く問われていない。司法、立法、行政のいずれの機関も未だ不問である。
戦後においても国家機関や企業における不祥事の責任が曖昧な事案が屡々見受けられるがこれは日本人の悪しき温情なのだろうか。
その昔「昭」は日本の戦況全く知ることなく国家のため海軍に志願したがすでに敗勢終盤。後年大戦の記録資料等によりその全容知るとともに軍事国策に翻弄された時代から70年余、そして悲劇の3年8ヶ月を回想した。
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